現在の横浜市の北部地域、昭和14(1939)年に合併した都筑郡の町村は、同時に合併した鎌倉郡の町村とともに、そのほとんどが農村地域であった。この農村風景は、太平洋戦争中・戦後の食糧難の時代にはほとんど変わらなかったが、昭和30年代以降、高度経済成長とともに急激に変貌していった。
昭和28(1953)年、東急電鉄は、この市北部を含む地域の「城西南地区開発計画」を発表した。この計画は、大山街道に沿って川崎市から横浜市、そしてその先をも含む開発計画であり、市域では中川・山内・中里・田奈・新治という地区が含まれていた。この中で、本業である鉄道の設置も計画されたが、ます、コストの理由などから高速道路の敷設が計画に盛り込まれていた(東急ターンパイク計画、後に断念)。
「城西南地区開発計画」は、昭和30年代以降、東急をも含む地主により組織された区画整理組合の事業を、東急が一括代行するかたちで進められていった。地域によっては反対運動などにより遅延があったが、昭和40年代に入って続々と区画整理事業は竣工し、青葉台・美しが丘・藤が丘などの新しい地名が誕生した。また、昭和41(1966)年4月1日、東急田園都市線が溝の□と長津田間において開通し、住宅地としての便が整えられていった。
写真ならびに地図に示した成合町は、現在の青葉区たちばな台などに当たる地域である。この地域の南側は、青葉台・桜台などとなった恩田第二土地区画整理地区で、昭和42(1967)年5月に換地処分※となり、間をあけずに成合町の大部分と恩田町・上谷本町・鴨志田町の各一部を範囲として、成合土地区画整理組合が組織された。対象面積は約60へクタール、換地処分時の組合員は95名であった。区画整理前の成合町は、昭和29(1954)年の地図に見るように谷戸に細長く並ぶ水田が1割、地図には示されていないが畑が2割、山林原野が6割を占めた。昭和30年代の世帯数は20前後、人口は110~130人ほどであった。
写真は、地図の上部、子神神社(子之神社)の南側辺りを東部(右側)から撮影したものと思われるが、道路沿いに在来の家屋が数軒並び、その周辺では宅地造成が進んでいる様子が分かる。同区画整理地区は、昭和46(1971)年1月換地処分、町名がたちばな台、若草台となり、同3月に竣工し、宅地が約49ヘクタールで8割強となった。なお、この問、同地区を含む市北部地域には、人口増加により昭和44(1969)年に緑区が新設された。
その後、昭和54(1979)年には、たちばな台(-・二丁目)の世帯数は808世帯、人口は3162人、若草台は268世帯、991人となった。
百瀬敏夫(横浜市史資料室調査研究員)
※土地改良や区画整理のために土地に存する権利関係が変わった場合。従前の土地の代わりに他の土地を与えたり。金銭をもって清算する行政処分。