たちばな台の今昔

HISTORY
たちばな台の今昔

たちばな台は、昭和40年代前半の土地区画整理事業前までの情景は、武蔵野丘陵そのもので自然豊かな土地でした。
昭和46年1月26日に区画整理事業の竣工に伴い、それまでの『成合町(なりあいちょう)』から『たちばな台』に町名が変わりました。
たちばな台に何時頃から人の営みが始まったかを知ることは困難ですが、横浜市史第一巻第三節「樽式土器の発見地と関東地方における後期弥生式土器の分布図」に『成合』が記載されていますので、西暦200年頃には人が生活していたことが分かります。
編武蔵風土記(1804年~1829年に編)の成合村の項に『成合』と言う地名の由来は分からないとしてあり、村の広さは東西5町(約550m・南北6町(約650m)、戸数16戸、村の東方の山の中腹に岩窟があり中の面積は、8~9坪(26~29㎡)で丸型の石が敷かれ、壼・勾玉.六角水晶等の遺物が出たとありますので、岩窟は考古学で言う横穴墓と思はれ、6~7世紀ぐらいに作られたものではないでしょうか。
たちばな台、元の『成合町』は元禄2年(1689年)の絵地図に於いて確認できる家は16戸、明治4年(1871年)時点に於いても15戸(横浜市史第一巻)と変化なく、昭和42年に土地区画整理が施工された当時の戸数は、若干20戸でした。
ところが昭和41年(1966年)に⻘葉台駅が開業すると、環境が激変し大量に町民が転入してきます。そこで町民の融和のために夏祭り「たちばなどんたく」が誕生し、その後は毎年恒例の地域親交イベントに成長しました。
しかし、そのどんたくもコロナ禍により令和2年(2020年)から4年間も中止となり、ノウハウの継承が困難なため一時はもう復活断念の流れになりかけましたが、町民の皆様の熱意により令和6年より5年ぶりに復活させることができました。

HISTORY.01

環状4号線と成合川の変遷

環状4号線と成合川の変遷 環状4号線と成合川の変遷

現在の環状4号線は、そもそも道路脇の川(成合川)よりも低いものでした。そのため道路を4メートルほどかさ上げし、現在に至っています。
一方、成合川は現在暗渠になり歩道になっています。(成合川はたちばな台病院側からマクドナルド側へ流れています)
左の写真は、カームステージから農協方向を眺めたもので、成合川は歩道で隠れています。
右の写真は、マクノナルドから子神社を望むもので、下の記事「多摩田園都市 たちばな台の開発」 当時の写真も同じ方向から撮影したものと思われます。

HISTORY.02

多摩田園都市 たちばな台の開発(庁内報 27年9月号より)

多摩田園都市 たちばな台の開発<span>(庁内報 27年9月号より)</span> 多摩田園都市 たちばな台の開発<span>(庁内報 27年9月号より)</span>

現在の横浜市の北部地域、昭和14(1939)年に合併した都筑郡の町村は、同時に合併した鎌倉郡の町村とともに、そのほとんどが農村地域であった。この農村風景は、太平洋戦争中・戦後の食糧難の時代にはほとんど変わらなかったが、昭和30年代以降、高度経済成長とともに急激に変貌していった。

昭和28(1953)年、東急電鉄は、この市北部を含む地域の「城西南地区開発計画」を発表した。この計画は、大山街道に沿って川崎市から横浜市、そしてその先をも含む開発計画であり、市域では中川・山内・中里・田奈・新治という地区が含まれていた。この中で、本業である鉄道の設置も計画されたが、ます、コストの理由などから高速道路の敷設が計画に盛り込まれていた(東急ターンパイク計画、後に断念)。

「城西南地区開発計画」は、昭和30年代以降、東急をも含む地主により組織された区画整理組合の事業を、東急が一括代行するかたちで進められていった。地域によっては反対運動などにより遅延があったが、昭和40年代に入って続々と区画整理事業は竣工し、青葉台・美しが丘・藤が丘などの新しい地名が誕生した。また、昭和41(1966)年4月1日、東急田園都市線が溝の□と長津田間において開通し、住宅地としての便が整えられていった。

写真ならびに地図に示した成合町は、現在の青葉区たちばな台などに当たる地域である。この地域の南側は、青葉台・桜台などとなった恩田第二土地区画整理地区で、昭和42(1967)年5月に換地処分※となり、間をあけずに成合町の大部分と恩田町・上谷本町・鴨志田町の各一部を範囲として、成合土地区画整理組合が組織された。対象面積は約60へクタール、換地処分時の組合員は95名であった。区画整理前の成合町は、昭和29(1954)年の地図に見るように谷戸に細長く並ぶ水田が1割、地図には示されていないが畑が2割、山林原野が6割を占めた。昭和30年代の世帯数は20前後、人口は110~130人ほどであった。

写真は、地図の上部、子神神社(子之神社)の南側辺りを東部(右側)から撮影したものと思われるが、道路沿いに在来の家屋が数軒並び、その周辺では宅地造成が進んでいる様子が分かる。同区画整理地区は、昭和46(1971)年1月換地処分、町名がたちばな台、若草台となり、同3月に竣工し、宅地が約49ヘクタールで8割強となった。なお、この問、同地区を含む市北部地域には、人口増加により昭和44(1969)年に緑区が新設された。

その後、昭和54(1979)年には、たちばな台(-・二丁目)の世帯数は808世帯、人口は3162人、若草台は268世帯、991人となった。

百瀬敏夫(横浜市史資料室調査研究員)

※土地改良や区画整理のために土地に存する権利関係が変わった場合。従前の土地の代わりに他の土地を与えたり。金銭をもって清算する行政処分。

HISTORY.03

昭和43年 細い旧道

昭和43年 細い旧道 昭和43年 細い旧道

みたけ台小学校下 交差点から桜台方面を望む

HISTORY.04

元禄2年の絵地図

元禄2年の絵地図

1689年 成合村・恩田村秣場論裁許絵図(横浜歴史博物館より)

飯島文夫家蔵
争論となった場所が描かれ、裁許によって決定された境界には墨線が引かれている。
また、この裁許を担当した幕府の寺社奉行・(江戸)町奉行・勘定奉行の署名捺印がみられる。

HISTORY.05

新編武蔵風土記より

新編武蔵風土記より 新編武蔵風土記より

「成合村風土誌」飯島利貞氏著より

HISTORY.06

見返りの松

見返りの松 見返りの松

昭和40年頃(区画調整前) 画像:(左) 昔・(右)今
坂の左がたちばな台1丁目1番地22付近、坂の右が桜台ハイネス青葉台管理棟(車庫付近)。
村民が村を離れる時、この松を見返って出発したと言われています。

航空写真

平成6年5月撮影
平成6年5月撮影
昭和22年撮影
昭和22年撮影
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